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没落令嬢の家政婦契約 ~冷酷CEOは、初恋を逃さない~
没落令嬢の家政婦契約 ~冷酷CEOは、初恋を逃さない~
Author: 花柳響

第1話 嵐の夜の拒絶と再会①

Author: 花柳響
last update Last Updated: 2025-12-20 15:00:27

 激しい雨の音だけが、すべてを塗り潰すように降り続いていた。

 視界が白く煙るほどの豪雨の中、全身をずぶ濡れにして立ち尽くす。

 肌に張り付くシルクのワンピースは体温を奪うほどに冷たく、背筋を伝う雨水が靴の中へと滑り落ちるたびに、不快感で指先が強張った。

 絶え間ない震えは、寒さのせいか、それとも心の底から湧き上がる怯えのせいか。

 目の前に立つ男の、凍てついた眼差しが、逃げ出したいはずの足をその場に縫い留めていた。

「……言ったはずだ」

 雨音にかき消されそうなほど低く、けれど重く響く声。

 傘も差さずに古びたアパートの軒下に立ち、濡れるのも厭わずこちらを見下ろしている。かつて恋し、焦がれ、愚かにも手が届くと信じて疑わなかった人。

「もう、俺の前に現れるなと」

 心臓を素手で握り潰されたような、鋭い痛みが走った。

 縋るように伸ばしかけた手は空を切り、雨を吸って肌に張り付いた、安物のTシャツに触れることさえ許されない。

 濡れた黒髪の隙間から覗く瞳。そこには、隣の家に住んでいた頃の幼馴染としての情など欠片もなく、ただ底知れない拒絶の色だけが揺らめいている。

「せい……や、ごめんなさい、私……」

「名前を呼ぶな」

 鋭い刃のような響きが、必死の言葉を断ち切った。

 轟く雷鳴が、一瞬だけ青白く彼の貌を照らし出す。

 陽だまりのように熱かったかつての眼差しは、もうどこにもない。すべてを焼き尽くし、拒絶する冷たい炎がそこにあるだけだ。

「お前のような女は、見るだけで胸が濁る。……失せろ」

 重たい音を立て、錆びついた鉄の扉が閉ざされた。

 塗装の剥げかけた扉が鼻先で噛み合い、ガチャリと鳴った冷たい金属音が、ふたりの世界を残酷に隔てた。

 十八歳の誕生日の夜。世界で一番寂しい方法で、私の初恋は終わりを告げた。

「……莉子りこ? 聞いてるの?」

 不意に名前を呼ばれ、弾かれたように顔を上げる。

 視界にあるのは、曇ったガラス窓と、古びた建材の匂いが漂う安アパートの壁。雨音など、どこからも聞こえない。耳に届くのは、朝の喧騒を急ぐ車の走行音と、遠くで響く工事の音だけ。

「あ、すみません……。何でしたか」

 慌てて意識を引き戻し、手にしたエプロンの紐をきつく締め直す。

 鏡に映るのは、オーダーメイドのドレスを纏っていた頃の「お嬢様」ではない。洗いざらしのシャツに黒いパンツ、実用性だけを優先したベージュのエプロン姿。化粧っ気のない肌は白く、目の下には消えない隈が張り付いている。

 二十二歳。あの夜から四年が経ち、今の自分は何も持たない、ただの月島莉子でしかなかった。

「今日の現場のことよ。私の代わりに急に行ってもらうことになって申し訳ないけど、かなり大きなお屋敷だから気をつけてねって」

 背後で、母が心苦しそうに眉を下げていた。

 かつては宝石や美術品を慈しんでいたその手は、長年の過労と水仕事で荒れ、節が目立っている。先週から続く微熱と腰の痛みが悪化し、今日はどうしてもベッドから起き上がれなかったのだ。

「大丈夫よ、お母さん。お掃除ならもう慣れたものだし、やることはどこへ行っても変わらないわ」

「そうだけど……あそこのご主人、すごく几帳面で厳しいって噂なの。特にプライベートエリアには絶対に入らないようにって、派遣会社の人からも念を押されていて」

「わかってる。余計なことには首を突っ込まない。ただの黒子に徹して、埃ひとつ残さずに帰ってくるから」

 努めて明るく微笑み、母の肩にブランケットを掛け直す。

 父が亡くなり、会社が倒産し、すべてを失ってから四年。生き延びるために選んだのは、プライドを捨てて汗を流す道だった。今の自分にとっては、どんなに厳しい雇い主であっても、今日一日分の給与と明日の食費の方が遥かに重い。

「行ってきます」

 重たい清掃用具の入ったボストンバッグを肩にかけ、狭い玄関を出た。

 鉄製のドアを閉めると、錆びついた蝶番がきしみ、心の奥底で何かが擦れるような音がした。

 指定された住所は、皮肉なことに、かつて住んでいた高級住宅街の一角だった。

 電車を乗り継ぎ、バスに揺られ、小高い丘の上にあるそのエリアに降り立つと、空気の味さえ変わった気がする。手入れされた街路樹、塵ひとつ落ちていない舗装道路、塀の向こうに見え隠れする瑞々しい庭木たち。

 ここには生活の匂いがない。あるのは、静かで圧倒的な「富」の残り香だけ。

 懐かしいなんて、思う資格もないはずなのに。

 バッグのベルトを握りしめ、かつての通学路だった坂道を登る。

 心臓が早鐘を打つ。角を曲がるたびに、幼い記憶が胸を掠めていく。白い犬と歩いた歩道、運転手付きの車が迎えに来たロータリー。そして、そのすべてを見下ろすように建っていた、生家――月島邸があった場所。

 しかし、目的地に近づくにつれ、足取りは鉛のように重くなった。

 そこは、自分の家があった場所の隣。

 かつて、古びたアパートが建っていた場所。雑草が生い茂り、いつも薄暗かったあの土地に、今は周囲を圧倒するようなモダンな邸宅が聳え立っていた。

「……ここなの?」

 思わず足を止め、その威容を見上げる。

 無機質な打ちっ放しのコンクリートと、空を映し込む巨大なガラスウォール。高くそそり立つ塀は中の様子を完全に拒絶しており、住人を世界から隔絶するためだけに作られた城のようだ。

 表札を探すが、デザイン重視のロゴが刻まれているだけで、すぐには判読できない。

 住所は合っている。以前ここにあった景色が、あまりにも様変わりしていて戸惑う。

 かつて隣に住んでいた、あの貧しい青年をふと思い出しそうになり、慌てて首を振った。

 関係ない。今の自分には、過去に浸っている時間など一秒もないのだ。

 深呼吸をひとつ。通用口のインターホンを押した。

『……はい』

 スピーカー越しに聞こえたのは、低く沈んだ男の声。心臓がドクリと跳ねたが、きっとセキュリティシステムの音声なのだろうと思い直す。

「本日、清掃に伺いましたスタッフの月島です」

『……お入りください。鍵は開いています』

 短くそれだけ告げられ、通話が切れた。同時に、重厚な通用口のロックが解除される音が響く。

 緊張で掌に滲んだ汗をスカートで拭い、重たい扉を押し開けた。

 一歩足を踏み入れた瞬間、肌に触れる空気が変わった。

 ひんやりと冷たく、静寂に満ちている。

 廊下は美術館のように静まり返り、床の大理石は鏡のように磨き上げられていた。安物のスニーカーが、キュッ、と場違いな音を立てる。

 息を潜めるようにして、指定されたリビングへと向かった。

 広い。それに、この匂いは……。

 リビングの扉を開けた瞬間、微かに漂ってきた香りに足を止める。

 上質なレザーと、深く焙煎されたコーヒー。そして微かに鼻を掠める、冷たいミントのような清潔な匂い。

 どこかで嗅いだことがある。記憶の奥底に眠っている、痛みを伴う懐かしさ。

 部屋の中央には重厚なソファが鎮座し、壁一面のシェルフには洋書やモダンアートが整然と並んでいる。

 生活感は皆無だ。モデルルームのように完璧で、それゆえに冷たい。

 けれど、置かれている調度品の趣味――モノトーンを基調とし、無駄を削ぎ落とした鋭利な美意識に、強烈な既視感を覚える。

 どうして、初めて来た場所なのに、知っている気がするのだろう。

 肌がざわつく感覚を抑え込み、仕事に取り掛かるためにバッグを下ろした。

 まずは埃払いからだ。余計なことは考えない。自分はただの清掃員なのだから。

 自身に言い聞かせ、ハタキを手に取ったその時だった。

 サイドボードの上に、伏せられた写真立てがあることに気づく。

 掃除のためにそれを持ち上げ、何気なく表を向けた瞬間、時間は音もなく凍りついた。

 カシャン。

 手からハタキが滑り落ち、大理石に乾いた音を立てる。

 指先が震え、写真立てを持つ手が支えきれない。

 そこに写っていたのは、知っている姿よりも少し大人びた彼――天道征也だった。

 少し伸びた黒髪、射抜くような鋭い瞳、不機嫌そうに結ばれた薄い唇。背景には、どこか荒涼とした海が広がっている。

「うそ……」

 喉から掠れた声が漏れた。

 全身の血の気が引いていくのがわかる。

 ここは、彼の家なのか。

 あの貧しかった彼が、これほどの豪邸を。

 混乱する頭の中に、四年前の記憶が濁流のように押し寄せてくる。

 自分が彼に何をしたか。彼が大切にしていた女性の存在を知りながら、嫉妬に狂って送りつけた、あの一枚の写真。

 海辺で無理やり撮った、水着姿の自分と、困惑する彼のツーショット。その裏に『征也は私のもの』と書き添えてポストに投函した、最低で愚かな悪意。

 それが露見した時の、あの氷点下の怒り。

 自分の初恋は、美しい思い出などではなく、罪と罰で塗り固められた記憶だ。

 逃げなきゃ。

 本能がそう叫んでいた。ここにいてはいけない。彼に見つかったら、今度こそ、本当の意味で自分は終わってしまう。

 けれど、足が床に縫い付けられたように動かない。写真の中の彼が、時を超えて自分を射抜いているような錯覚に陥り、呼吸さえもままならなくなっていく。

 記憶の蓋が、無理やりこじ開けられる。

 意識は、雨音と共に四年前のあの夜へと引きずり戻された。

 十八歳の自分が、プライドも羞恥心もかなぐり捨てて、彼の安アパートに押し掛けたあの夜へ――。

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