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激しい雨が、視界を白く塗り潰していく。
ずぶ濡れになりながら、私は立ち尽くしていた。 シルクのワンピースが肌に張り付いて、体温を奪う。靴の中に雨水が流れ込んでくる不快感に、指先が強張る。震えが止まらないのは、寒さのせいなのか、それとも目の前の男が放つ眼差しのせいなのか。 「……言ったはずだ」 雨音にかき消されそうな低い声。 傘も差さず、彼はこちらを見下ろしていた。かつて恋い焦がれ、手が届くと信じていた人。 「もう、俺の前に現れるなと」 心臓を素手で握り潰されたような痛みが走った。 縋るように伸ばしかけた手は空を切り、雨を吸って重くなった安物のTシャツに触れることさえ許されない。 濡れた前髪の隙間から覗く瞳には、幼馴染としての情なんて欠片もなく、ただ底知れない拒絶の色だけがあった。 「せい……や、ごめんなさい、私……」 「名前を呼ぶな」 刃物のような鋭い声。 雷鳴が轟き、一瞬だけ彼の顔を青白く照らし出す。 陽だまりみたいに暖かかった眼差しは、もうどこにもない。そこにあるのは、すべてを焼き尽くすような冷たい炎だけだ。 「お前みたいな女は、見るだけで胸が濁る。……失せろ」 重たい音を立てて、錆びついた鉄の扉が閉ざされた。 ガチャリ、と冷たい金属音が鳴り、ふたりの世界を隔てる。 十八歳の誕生日の夜。世界で一番寂しい方法で、私の初恋は死んだ。◇
「……莉子? 聞いてるの?」
不意に名前を呼ばれ、ハッと顔を上げた。 視界にあるのは、曇ったガラス窓と、安アパートの薄汚れた壁。雨音なんて聞こえない。外からは、朝のラッシュの喧騒と、工事の音が聞こえてくるだけ。 「あ、すみません……。何でしたか」 慌ててエプロンの紐をきつく締め直す。 鏡に映るのは、もうお嬢様じゃない私だ。洗いざらしのシャツに黒いパンツ、実用一点張りのベージュのエプロン姿。化粧っ気のない顔色が悪く、目の下には隈が張り付いている。 二十二歳。あの夜から四年。今の私は何も持たない、ただの月島莉子でしかなかった。 「今日の現場のことよ。私の代わりに急に行ってもらうことになって悪いけど、大きなお屋敷だから気をつけてねって」 背後で、母が心苦しそうに眉を下げている。 かつては宝石を撫でていたその手も、今では水仕事で荒れてゴツゴツしていた。先週からの微熱と腰痛が悪化して、今日は起き上がれそうになかったのだ。 「大丈夫よ、お母さん。お掃除ならもう慣れっこだし、どこへ行ってもやることは一緒だから」 「そうだけど……あそこのご主人、すごく厳しくて几帳面なんだって噂なの。特にプライベートエリアには絶対に入らないようにって、派遣会社の人からも念を押されてて」 「わかってる。余計なことには首を突っ込まない。ただの黒子になって、埃ひとつ残さずに帰ってくるから」 努めて明るく笑って、母の肩にブランケットを掛け直す。 父が亡くなり、会社が倒産し、すべてを失ってから四年。生きるために選んだのは、プライドを捨てて手を汚すことだった。どんなに厳しい雇い主だろうと、今日の日銭と明日の食費の方がずっと重い。 「行ってきます」 清掃用具が詰まった重いボストンバッグを肩にかけ、狭い玄関を出た。 鉄のドアを閉めると、蝶番が錆びた音を立てて、心のどこかが擦れた気がした。指定された住所は、皮肉にも、かつて住んでいた高級住宅街の一角だった。
電車とバスを乗り継ぎ、小高い丘の上のエリアに降り立つと、空気の味さえ変わった気がする。手入れされた街路樹、ゴミひとつない舗装道路、塀の向こうに見える立派な庭木。 ここには生活の匂いがない。あるのは、静かで圧倒的な富の残り香だけ。 懐かしいなんて思う資格もないくせに。 バッグのベルトを握りしめ、昔通った坂道を登る。 心臓が早鐘を打つ。角を曲がるたびに、幼い頃の記憶が蘇る。白い犬と散歩した歩道、迎えの車を待ったロータリー。そして、その先に見えていたはずの生家――月島邸。 けれど、目的地に近づくにつれて、足取りは鉛みたいに重くなった。 そこは、自分の家の隣だった場所。 かつて、古びたアパートが建っていた一角。雑草だらけで薄暗かったあの場所に、今は周囲を威圧するようなモダンな邸宅が聳え立っている。 「……ここなの?」 思わず足を止めて見上げた。 打ちっ放しのコンクリートと、空を映す巨大なガラス。高くそびえる塀は中の様子を完全に隠していて、まるで要塞みたいだ。 表札にはデザインされたロゴがあるだけで、すぐには読めない。 住所は合っている。でも、かつての景色があまりにも変わりすぎていて戸惑う。 昔、隣に住んでいた貧しい彼を思い出しそうになって、慌てて首を振った。 関係ない。今の私に、過去に浸っている暇なんて一秒もないんだ。 深呼吸して、通用口のインターホンを押した。 『……はい』 スピーカー越しに聞こえたのは、低く沈んだ男の声。心臓が跳ねたけど、セキュリティの音声だろうと思い直す。 「本日、清掃に伺いましたスタッフの月島です」 『……どうぞ。鍵は開いてる』 短くそれだけ告げられ、通話が切れた。同時に、重々しいロック解除音が響く。 掌に滲んだ汗をスカートで拭って、重い扉を押し開けた。 一歩踏み入れた瞬間、空気が変わった。 ひんやりと冷たくて、静かだ。 廊下は美術館みたいに静まり返っていて、床の大理石は鏡みたいに磨かれている。安物のスニーカーが、キュッ、と場違いな音を立てた。 息を殺すようにして、指定されたリビングへ向かう。 広い。それに、この匂いは……。 リビングの扉を開けた瞬間、漂ってきた香りに足が止まった。 上質なレザーと、深く焙煎されたコーヒー。そして鼻を掠める、冷たいミントみたいな清潔な匂い。 どこかで嗅いだことがある。記憶の奥底で疼く、痛いほど懐かしい匂い。 部屋の中央には重厚なソファが鎮座し、壁一面の棚には洋書やモダンアートが並んでいる。生活感なんてまるでない。モデルルームみたいに完璧で、冷たい。 けれど、置かれているモノの趣味――モノトーンを基調とした、無駄のない鋭利な感じに、強烈な既視感を覚える。 初めて来たはずなのに、知っている気がしてならない。 ざわつく肌をなだめて、仕事にかかるためにバッグを下ろした。 まずは埃払いからだ。余計なことは考えない。私はただの清掃員なんだから。 自分に言い聞かせてハタキを手に取った、その時だった。 サイドボードの上に、伏せられた写真立てがある。 掃除のために持ち上げて、何気なく表を向けた瞬間、時間が止まった。 カシャン。 手からハタキが落ちて、乾いた音を立てる。 指先が震えて、写真立てを支えきれない。 そこに写っていたのは、知っている姿よりも少し大人びた彼――天道征也だった。 少し伸びた黒髪、射抜くような瞳、不機嫌そうな薄い唇。背景には、どこか寂しげな海が広がっている。 「うそ……」 喉から掠れた声が出た。 血の気が引いていくのがわかる。 ここは、彼の家なのか。 あんなに貧しかった彼が、こんな豪邸を。 混乱する頭に、四年前の記憶が濁流みたいに押し寄せてくる。 私が彼にしたこと。彼が大切にしていた人がいると知っていながら、嫉妬に狂って送りつけた一枚の写真。 海辺で無理やり撮ったツーショット。その裏に『征也は私のもの』と書いてポストに放り込んだ、最低で幼稚な悪意。 それがバレた時の、あの凍りつくような怒り。 私の初恋は、綺麗な思い出なんかじゃない。罪と罰で塗り固められた記憶だ。 逃げなきゃ。 本能が警鐘を鳴らす。ここにいちゃいけない。彼に見つかったら、今度こそ本当に終わってしまう。 でも、足が床に縫い付けられたみたいに動かない。写真の中の彼に見つめられているような気がして、息ができない。 記憶の蓋が、こじ開けられる。 意識は、雨音と一緒に四年前のあの夜へ引きずり戻された。 十八歳の私が、プライドも何もかも捨てて、彼の安アパートに押し掛けたあの夜へ――。「……え?」「この別荘の周りには、僕の私兵を配置してある。……武装したプロたちだ。もし天道がのこのこ現れたら、蜂の巣にしてやるよ」 蒼は狂ったように笑った。「君の目の前で、愛する男が肉塊に変わるのを見れば……君も少しは大人しくなるかな?」「やめて……! お願い、彼には手を出さないで!」「遅いよ。……もう賽は投げられたんだ」 蒼は窓の方を指差した。「聞こえるだろう? ……雨の音が」 激しい雨音。風の唸り。 窓の外では、嵐が世界を飲み込もうとしていた。「この嵐の中、彼は必死に君を探しているはずだ。……哀れな獣だね。罠があるとも知らずに」 蒼は部屋を出て行こうとした。私は床を這って追いかけ、彼のガウンの裾にしがみついた。「お願い! やめて! 私が悪かったから……言うことを聞くから! だから征也くんだけは……!」「……もう手遅れだよ」 蒼は冷たく私を見下ろし、足を振り払った。「明日の朝、手術が終わったら……君に新しい首輪をつけてあげる。……僕だけの、永遠の首輪をね」 バタン。 ドアが閉められ、鍵がかかる音が響く。私は床に突っ伏して、声を上げて泣いた。「うあぁぁぁぁ……ッ!!」 ごめんなさい。ごめんなさい、征也。ごめんなさい、私の赤ちゃん。 私のせいで。私が馬鹿だったせいで、あなたを死なせてしまうかもしれない。 悔やんでも悔やみきれない。恐怖で体が震え、涙で息ができなくなるほど泣きじゃくった。 どれくらい、そうしていただろう。 嵐の音だけが響く部屋で、涙も枯れ果て、ただ床の冷たさだけが肌に沁みてくる。 指一本動かす気力もない。この
世界が、反転した。 征也の冷たい態度。『俺がやったことに、なっているのか』という、あの日の自嘲気味な呟き。『俺を人殺しだと思って生きろ』という、突き放すような言葉。 あれは全部、私を守るための嘘だったんだ。 私に真実を知らせて傷つけないために。私が信じていた幼馴染の裏切りを知って絶望しないように、自ら悪役を引き受けて、泥をかぶっていたんだ。(……なんてこと) 私は、何てことをしてしまったんだろう。 命がけで私を守ってくれた彼に、「人殺し」「汚い」「触らないで」と罵声を浴びせてしまった。一番傷ついている彼の心に、さらに深い傷を負わせてしまった。「……あ、あぁ……」 後悔と絶望で、胸が張り裂けそうになる。 征也。ごめんなさい。 あなたは、ずっと私を守ってくれていたのに。不器用で、言葉足らずで、でも誰よりも深く、私を愛してくれていたのに。「ようやく分かったかい? 莉子ちゃん」 蒼が、私の頬を伝う涙を冷たい指で拭った。「彼は君には相応しくないんだよ。……だって、君を守りきれなかった『敗北者』なんだから」「違う……!」 私は叫んだ。喉が裂けそうになっても構わなかった。「彼は負けてない! ……私が、愚かだっただけよ! 彼を信じてあげられなかった、私が弱かっただけ!」「まだ彼を庇うのかい?」 蒼の顔から、表情がすっと消える。 残ったのは、爬虫類のような冷たい嫉妬と、濁った殺意だけ。「いい加減に目を覚ましなさい。……彼はもう来ない。君は一生、僕の檻の中で暮らすんだ」「来るわ!」 私は言い返した。涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げて、彼を睨みつける。「彼は来る。……絶対に、私を迎えに来る!」「……根拠は?」「愛してるからよ!」
「……あなたが?」「そうさ。経営不振に見せかけた、計画的な倒産だ」 彼は私の乱れた髪を指で弄びながら、淡々と続けた。まるで、昨日の天気の話でもするように。「でもね、計算外のことが起きたんだ。……ハイエナが一匹、嗅ぎつけてきた」「……ハイエナ?」「天道征也だよ」 蒼の整った顔が、憎々しげに歪む。「あいつは、僕の計画に気づいたんだ。……当時まだ学生で、金も力もなかったくせに、必死になって君の家を守ろうとした」「え……?」「あいつは自分の全財産を投げ打って、さらに怪しげな筋から借金までして、月島の債権を買い集めたんだ。……僕たち銀行団に渡らないようにね」 心臓が、早鐘を打つ。 書斎の金庫にあった書類。『譲受人:天道征也』の日付。 あれは、会社を乗っ取るためじゃなかったの?「彼はね、君のお父さんに提案したんだ。『会社を立て直すまで、俺が債権を預かります。経営権はそのままにして、一緒に再建しましょう』って」 再建。 金庫の奥に残されていた、もう一冊のファイル。『月島ホールディングス再建計画書』。 あの時、私は怒りに任せて中身を見ようともしなかった。「……じゃあ、征也くんは……助けようとしてくれていたの?」「そうだよ。馬鹿な男だよね。……何の得にもならないのに、ただ君の笑顔を守りたい一心で、泥舟を支えようとしたんだ」 涙が、じわりと視界を滲ませた。 知らなかった。何も知らなかった。 彼があの頃、どんな思いで私の家の事情に関わっていたのか。私に向けられたあの冷たい言葉の裏に、どれほどの熱が隠されていたのか。「でも、無駄だった」 蒼が冷たく言い放つ。「僕が手を回して、再建計画を妨害したからね。……物流を止め、取引先を脅
腹を抱え、涙が出るほど楽しそうに。狂気じみた高い笑い声が、狭い部屋の壁に反響して耳を劈く。「ああ、傑作だ。……天道もご苦労なことだねえ。あれだけ汚れ役を被って、泥をかぶって君を守ったのに、肝心の君には『何もしてくれなかった』なんて思われているんだから」「……どういう、こと?」 笑いが止まり、蒼が真顔に戻る。 眼鏡の奥の瞳は、深淵のように暗く、光を吸い込んでいる。「教えてあげようか、莉子ちゃん。……本当の『真実』を」 彼はガウンのポケットから、一枚のICレコーダーを取り出した。黒くて小さな機械。それが、開けてはならないパンドラの箱だとは知らずに、私はただ見つめていた。「これを聞けばわかるよ。……誰が君の家を壊し、誰が君を守ろうとしたのか」 蒼が再生ボタンを押した。 ザザッ……という乾いたノイズの後、男たちの話し声が聞こえてきた。もう何年も前の、古い録音データのようだ。『……おい、神宮寺。本当にやるのか? 月島をつぶすなんて』 聞いたことのない、若い男の声だ。『当たり前だろう。あそこの技術は魅力的だが、経営陣が無能すぎる。……今のうちに債権を買い叩いて、バラバラにして売り払えば、莫大な利益になる』 その声を聞いた瞬間、私の全身の血が凍りついた。 若くて、少し高い、冷酷な響き。 間違いようがない。神宮寺蒼の声だ。『でも、娘がいるんだろう? お前の幼馴染の』『莉子ちゃん? ああ、可愛いよね。……だからこそだよ。彼女がお姫様のままじゃ、僕の手には入らない』 レコーダーの中の蒼が、くすくすと笑う。今の彼と同じ、湿った笑い声。『家を失い、親を失い、路頭に迷ってボロボロになったところを……僕が拾ってあげるんだ。そうすれば、彼女は一生僕に感謝して、僕だけのものになるだろう?』『…
サイドテーブルにグラスを置くと、トクトクと赤い液体を注いだ。豊潤なブドウの香りが漂うはずなのに、今の私には鉄錆びた血の匂いのようにしか感じられない。「……いらない。妊娠中だって言ったでしょ」「おや。まだそんなことを気にしているの?」 蒼は可笑しそうに喉を鳴らし、なみなみと注がれたグラスを私の鼻先に突き出した。「どうせ明日にはいなくなる命だ。……最後に美味しいものを味わわせてあげればいいじゃないか」「……っ、最低!」 私はグラスを払いのけた。 バシャッという音と共に、赤い液体が床にぶちまけられ、白い絨毯にどす黒い染みが広がる。「ああ……勿体ない。ヴィンテージだったのに」 蒼は残念そうに床を見つめ、それからゆっくりと視線を上げ、冷ややかな瞳で私を射抜いた。「……君は本当に、変わってしまったね。昔はもっと素直で、僕の言うことを何でも聞く可愛い子だったのに」「私は変わってない。あなたが狂ってるだけ!」「狂っている? 僕が?」 彼はゆっくりと私に近づき、ベッドの端に腰を下ろした。マットレスが沈む。逃げようと身をよじった私の足首を、彼の手が素早く掴んだ。 ひやりとした、爬虫類のような冷たい手。「違うよ、莉子ちゃん。狂っているのは、君をこんな風に変えてしまったあの男だ。……天道征也だよ」「……彼の悪口を言わないで」「悪口? 事実を言っているだけだよ。……あいつは君の親の仇だ。君の家を潰し、父親を自殺に追い込んだ張本人だ。そんな男の子を必死に守ろうとしている君の方が、よっぽどどうかしていると思わないか?」「……っ」 言葉に詰まる。喉元に鋭い棘が刺さったように、息苦しい。 その事実は、否定しようのない傷だ。どんなに征也を求めても、その罪だけは消えない。彼自身が「否定はしない」と言った
部屋に押し戻され、外から鍵を回す音が響いてから、どれくらいの時間が過ぎただろう。 窓の外は、夜というよりは泥のような闇に塗り潰されている。ガラスを叩きつける雨音が不規則なリズムを刻み、時折走る稲妻の青白い光が、窓に嵌められた鉄格子の影を床に長く伸ばしては消えた。 私は、蒼に切り裂かれたアンティークドレスを脱ぎ捨て、部屋の隅で膝を抱えていた。薄い毛布を頭からかぶり、自身の体温を逃がさないようにうずくまる。 首元に残ったサファイアの石を、指が白くなるほど強く握りしめた。 寒い。 空調の音は微かに聞こえているはずなのに、骨の髄まで凍りつくような悪寒が止まらない。 神宮寺蒼という男の底知れなさ。 彼は私を愛してなどいない。私という素材を、自分の好みに切り刻んで標本箱に収めたいだけだ。明日の朝になれば、私は手術台に乗せられ、麻酔で意識を奪われる。そして目が覚めた時には、お腹の中の温かい命は消え失せ、心も体も空っぽの人形として、あの地下室のコレクションに加えられるのだ。 嫌だ。 奥歯を噛みしめる。顎が痛くなるほど食いしばる。 絶対に渡さない。たとえ父の仇の血を引いていたとしても、私の中に宿った、征也との唯一の繋がりなのだから。 その時だった。 コツ、コツ、コツ。 廊下の静寂を破り、革靴の音が近づいてくる。 また、彼だ。心臓がきゅっと縮み上がり、喉の奥が引きつる。もう放っておいてほしい。朝まで時間をくれると言ったくせに。 ガチャリ。 重たい金属音がして、ドアが開く。「……まだ起きていたの? 莉子ちゃん」 入り口に、神宮寺蒼が立っていた。 片手には年代物のワイングラス、もう片方の手には開栓されたボトルがぶら下がっている。さっきまでの正装ではなく、艶のあるシルクのガウンを羽織っていた。風呂上がりなのか、石鹸の匂いと共に、どこか湿った空気をまとっている。そのリラックスした様子が、ここが彼の城であり、私が囚人に過ぎないことを無言で強調していた。「……何の用?」 私は毛布を顎まで